(映画パンフレット)『コンタクト』

  天文学者カール・セーガンの原作を映画化、ロバート・ゼメキス製作、監督作品『コンタクト』(1997)

  原題「CONTACT」

 (出演)ジョディ・フォスター、マシュー・マコノフィー、ジェームズ・ウッズ、トム・スケリット、ロブ・ロウ、ジョン・ハート、アンジェラ・バセット、

 (音楽)アラン・シルヴェストリ 

23光年はなれた恒星ヴェガから送られてくる電波信号   変換すると素数の列  ヒットラーの映像  素数を解読するとポッド(宇宙間移動装置)の設計図   プエルトリコ「アレシボ天文台」  ET探査(SETI)  ワームホール(名前の由来はリンゴの虫食い穴、トンネル構造のエネルギー界、光の速さよりもはやく移動できる空間)  キップ・ソーン(ノーベル賞物理学者)

 天文学者である著者カール・セーガル曰く、

「神は存在するのか?科学的に証拠がない限り肯定できようがない」

「こんな広い宇宙に人類だけではもったいない」

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・・いま思うに、公開されて間もない頃だったか、監督のネームバリューにどんな作品かも知らず観たと思う。まだSFにも興味なくなんにも知らないのに観たには、たしかに迫力、ライド感あったはいいが、ひとりポッドに乗り込む主演のジョディー・フォスターの地味な刺さることのなかった映画にすぎなかった。

そんなSF嫌いだった自分も今や変わりつつあるなか(流れというのか)また観たくなり再度鑑賞。捉え方も全然ちがい刺激もあり意味もあり結構な作品だと強く実感。

・・やはり夢と同じようなものかな。「実際に見たんだからしょうがない・・」とね。こればっかりは証拠もなにも体験(見た)本人しか説明(証明)できないもの。もどかしさがあるよね。

「メッセージ」や「ゼロ・グラビティ」など宇宙ものの女性主人公映画には良作が多いね。

映画のハイライトのひとつ、個人的にも、ド頭の地球からどんどん引いて行って太陽系を超えていく映像観ただけでも本当に頭が痛くなったなぁ(幼いころから宇宙ものや天文学的スケールものには弱くて、夜なんか考えるだけでも寝られず泣きたくなるほどの孤独感を感じたりと嫌な気分悪い思いしたことも)。

サントラは全編ウェルメイド調のピアノ曲メインで「これフォレストガンプじゃないか」と思われたもの。他にもフォレスト要素といえば(監督が同じだからね)、本物の大統領の映像とうまく繋ぎ合わせる編集やラストでのホワイトハウス?前の大群衆が先に観たフォレスト感を感じたかな。

中盤でのアメリカでの実験の際の紛れるテロにはちょっと都合が良すぎたんじゃないかな(いくらなんでもあんなに簡単に入られるもんじゃないでしょ)。

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・・あれから20年以上と経って、成り行きだったのか、それまでSFには喰いつくことのなかった自分も昨今では、クラークや小松左京、映画では『マトリックスシリーズ』『インターステラー』『メッセージ』など次々と惹かれていき、今ではステープルドンの『スターメイカー』読みながら過ごし、且つ(それこそ科学的に証拠もないが)自分をスターシード、ライトワーカーだと自認したりとなか、また無償に観たくなり(上記にもあるように)久しぶりに観た『コンタクト』の共感、面白味、学びと同時に、こうして3次元の地球上に住んでて、まぁなんと宇宙からみれば人類人間の存在のちっぽけなことかと、さらに自分をSFモードへとシフトし、そもそも宇宙的表現には良いも悪いもタブーもないと割り切って考えてしまうことある現在。

・・科学的に証拠を示せない限り~・・など云うと、宇宙論や地球外知的生命体だけでなく、もっと身近なとこでの「夢」の世界についても同じじゃないかと考えられる。夢とはあぁだこぅだと大学の教授から霊能者だか専門家だか、古くはフロイト、ユングなどによる説や解釈など心理学的に、またスピリチュアル的には肉体からエーテル体が離れての5次元空間へのアストラルトリップなどの云われもカタやあるなか、自分もサンドニ伯爵のように身をもって体験し、「そぅだった」「みた」「体感あった」と自由に云えるはいいが、またそこでも証明のしようがないと(証拠がないと)いうことなのかとジレンマ?・・この映画の主人公のように科学と宗教とはべつにまだ多くの解明されない真理(謎)のまま、これから先も続くんじゃないのかな?