哲哉と夢について・・

 


哲哉(てつや)

突然のことだったよね。
2007年5月13日にみた夢の内容のショック(ホントに悲しかった)に2~3日引きずったのをキッカケにどんな夢だったかと確認がてら文章にして書いてみようとはじめたのがこの夢日記のはじまりだったかな。
それ以来、日に日に夢について興味がつのり多くの蔵書を読んだりすると平行して夢でも多くの体験をするようになり、それまでただ寝るだけだった夜の時間に大きな楽しみを得て日常のライフワークとなった。
そして日々どんどん夢をみる(覚える)機会が増え日記を書く楽しみも増したのだった。

 

・・いまさらながらってなんだろね?・・今だによくわからないよね(だいたい科学的にも癌、禿げ、など同じく不明確のうちのひとつとあれてるしね)。でもその不可解さが面白いんだよね。
何でこんな夢をみたのか?なにがそのような夢を見させたのか?自分は果たして異常な人間なのか?正常なのか?(だいたい普通ってなんなのかすら分からないね・・)。
いろいろ自問自答しながら日々訪れるもうひとりの自分像(裏側の自分、あるいは本当の自分)の世界をありのまま受け入れることにする。

・・そもそも自分と夢との関わりはなにも2007年に始まったわけでは勿論ない。生まれてから毎晩のように寝ているのだから。実際これまでも何万もの夢をみているわけだよね。とはいえ残念ながらほとんどの夢を覚えていない(子供の頃にみた強烈な怖い夢などは憶えてるが)。
・・忘れてしまっているんだね(その日のうちに)。
ただ、ふと思うと、何十年経った今でも記憶に残る夢は確かにある。それは昔、風邪を引いたりして熱にうなされながら寝込んでいる時などに決まって見た夢などあった。それは或る物体と云おうか、自分の目の前に現れた直径10m程の表面のゴツゴツした球体が超高速回転で回っているのが現れたりなど。そしてその回っている球体に自分は手で触れたりするのだが、どちらかといえば、恐怖感、不快感持ちながら眺めたりしてた(今、思えばその球体じたいが自分にとってなんの暗示だったのか?なんのキーワードだったのかと考えたりするが)。もう成人している今ではその夢はそれ以来見る機会はなくなったが、自分がまだ保育園児の頃や小学校に通っていた頃のまだ幼き頃によく見た夢で。

夢の本棚

夢に関心をもつようになってからは当然のごとく夢に関する小説、エッセイ、詩集、学門書などを集めるようになり今(2014年秋)では二百を越す数となりました(勿論現在も収集中)。けれど沢山の本を読み夢について”勉強する”という気はそれほどはありません。大体、夢というもの自体解かっていないものですからね。実際、科学的にも解明されていないことがまだ無限にあるくらいですからね。ですから自分はシンプルにその摩訶不思議な、不可解な世界にどっぷりつかっていたいだけなのです。・・それだけです。

 

・・またここで思いつくまま他の分野においての自分の嗜好をあげてみる。以下はやはり夢について見たり聞いたりするうちに知ったり体感したことによって現在においての自分のストライクゾーン(ツボにはまる)もののジャンルや系統です。
例えば映画では、昔のATG映画(アートシアターギルド)の映画をもっぱら好みDVDなどで繰り返し観たりと。「去年マリエンバードで」「アンダルシアの犬」などのように人々からは難解と云われるような夢幻的作品を好みます。他にもベルイマン監督作品やデビッドリンチ監督作品など。 絵画の分野も同じく夢のような世界を描いたダリ、キリコ、デルボーの作品群から、他にはロスコ、イヴクラインのような抽象的で内省を感じる作品に魅かれています。 小説や漫画の世界でもキリがないのですが挙げると、島尾敏雄、内田百閒、日野啓三、つげ義春などなど。

・・人生において誰しも生きているうちに大なり小なり必ず何かしらの転機というものが訪れることがあると思います。
自分もここ何年も続いている(続けていることになんの苦もなくむしろ楽しんでいる)ひょんなことから始まった夢との関わりも自分にとってひとつの転機ということになりましょうか。そしてこの夢との関わりがこれからの人生を変えていく程のものになるのか? または、ただ単に趣味の一環としてズルズル続けていくだけのものなのか?どうなるのかは判りません。単純に楽しい、面白いから関わっているだけで何もそれ以上のことは求めてません。だいたい、”夢”=自分のもうひとつの像なのですから、求めるも求めないも自分のことです。ですので急に突然に関わりだしてから何年も続いているこの”夢”との関わりを自分においてひとつの転機(または啓示)と捉え、これからも上手に付き合って生きたいと思います。

日記帳

 

「人の夢ほど聞いててツマラないものはない」と巷ではよく云われるよね。

でも夢について多少の興味がある人であれば共感ある部分もあったり私も夢日記を書いてみようかという影響が少しでもあれば、お役に立つことがあれば・・などといったことと、もう一つ、自分にとって生きている証を残したいという衝動にかられ、日記の内容から恥づかしいこともありますが、これも表現のひとつとして載せることにしました。

 

自分が生まれてきた理由、存在理由のひとつが自分の色を作り出すことだったゴッホに対して自分(哲哉)は自分でいる為に夢を綴っていくのであろうことか?そのゴッホも云ってたことソックリそのまま自分にもあてはまることがあるのだろうか?「自分の絵のことだけしか語れないのだ」とゴッホも云ってたように自分も「自身の夢のことだけしか語れないのだ」・・と。

夢と過去の記憶は自分にとって過去と現在を結びつける絆であり支えでもあるので、たとえそれが他の人々に理解されようがされまいが、やり続けること(自分にとって夢を綴っていくこと)、それ自体ひとかどの何かであるのだろう・・。

画家は自画像を描き、作家は私小説を書く。

そして哲哉は夢を通じて(映画パンフレット考などあわせて)自分を書くことにする。

過去の思い出と記憶、更には日々みる夢を掛け合わせた一連の綴りものを自分は、『哲哉版・ 失われた時を求めて』ということにでもなろうことか・・。

予知夢、 明晰夢、 不安夢、雑夢、霊夢、心夢、元型夢、

今夜も無意識から送られてくるであろう数々の啓示や暗示、イメージなどを受け取りながら内省を通じて自己(セルフ)へと導いてくれることを願う。

・・日記は哲哉という名の一個人による心象スケッチということであろうかな・・。