Updated on 1月 17, 2021
(映画パンフレット)『愛は静けさの中に』
ランダ・ヘインズ監督作品『愛は静けさの中に』(1986)
原題「Children of a Lesser God」(劣った神)→(不完全な機能の人間)→(聾者の意)
(出演)ウィリアム・ハート、マーリー・マトソン(アカデミー賞助演女優賞受賞)、
・・まずパンフの表紙の写真が良くないねぇ(なにか機嫌悪い時のブスッとしてる時のようにも見えるんだけどね)。もうちょっとヒロインの良いショットが無かったのかなぁって思うんだけどね。・・っていうくらいやはりマーリー・マトソンさん綺麗だったね。アメリカの忍足さんとでも云おうかね。
さて、この映画、ハッピーなラブロマンス映画っていってもいいと思うけど、どうもねぇ、俳優ウィリアム・ハートさんの出演する映画を観るたびに・・なんだろうなぁ?・・羨みなんだろうか、僻み、やっかみなんだろうか?・・キャスリン・ターナーさんとの共演『白いドレスの女』といい、エリザベス・パーキンスさんとの共演『ドクター』といい、そんでこの映画といいなにか先入観からか美女との共演が多いように思えて(良い役ばっかな印象)心から喜べてない自分があるんだよねぇ。ちなみに『アルタード・ステイツ』は奥さん役はあんまり覚えてないけどね。なにかちょっと嫌味な感じにも観えてしまったりもするんだよね(これは自分だけかな?)。
・・あともう一つ(この映画だけでなく)昔から気になることで・・、日本の映画やドラマでもそうだけど、どうも手話のからんだ話となると聾者が手話したあと相手側の健聴者も(理解できているのに)そのまま訳すように聞かれたことなど声に出して一回一回やりとりされるよね・・結局この映画も基本的はそうだったけどね・・しかもさらにその健聴者も声に出しながらやりとりする。これって普通に手話の知らない人への判りやすさの為だとわかっちゃぁいるけど・・それがどうも不自然にしか見えないんだよね。例えばだったら聾者が手話をすると同時にカッコつきなどでの字幕スーパーなどで知らせてくれて、それを理解した手話のできる健聴者もだまってそれに対して手話だけをやり取りする方が(その時も字幕スーパーなど)自然にみえるかな?と思うんだけどねぇ、この考えって変かな?昔からけっこう気になることのひとつなんだよね。・・あのなんともいえない静かな(身振り手振りは激しいんだけどね、声でのやりとりの無い)聾者たちのやりとりする世界を映像などで観たりするとその独特な雰囲気に見るこちら側も惹きこまれるんだよね。そんな映像を思うと映画用テレビ用にやりとりされる会話を観てるとちょっとわざとらしくも見えたりするんだよね。