(小説・エッセイ)『スターメイカー』

オラフ・ステープルドン著『スターメイカー』(1937)国書刊行会

原題「STAR MAKER」

肉体から離脱し精神体となった主人公による時空を超えた宇宙探索の旅。さまざまな星の共棲体を築いた末、至高の創造主「スターメイカー」と対峙する。

・・いぜん作家の岩下尚史さんもテレビで云ってたように「・・読書っていうのは知識や教養を得るために読むもんでなく、その時その時の時間(読んでるあいだ)の心地よさと愉しみを得るためのもの・・」、まさにこの岩下さんも云ってたことがちょうど思い出させたかんじだったかな。理解しよう、解ろうとしようと務めるんじゃなくて、映画を観てるあいだかのように哲学感覚の内容とはいえ愉しんでゆっくりと時間かけて読んだ。

・・ひととおり最後まで読み終わって、更にもういっぺんちょっと読み返してみようかと(序の文)を読んでると、更に著者の書くに至った心情、動機がよりうかがえたかな。十六章のエピローグでアジアからヨーロッパから(日本の描写も富士山などあるが、皮肉にも軍事国家をにおわすようにアジアを超えて噴きこぼれるマグマの比喩のような表現もあったり)ぐるり地球を見回りながら各国各地域を憂いていたことが如実にわかる。ということであらためて序文を読み返すと、この作品が書かれた頃の1930年代の世界状況を憂いているのがわかる。この戦時下の憂いが途中での(メインとなる)精神体での飛行探索よりもなにか悲しく刺さるものがあったね。

・・読む前では正直難しいかな?アーサー・クラーク作品より難解かな?と思いきや、あれまと、宮澤賢治「銀鉄」のように主人公によるアストラルトリップ的(大宇宙旅行記)じゃないかと。ジョバンニが列車に乗った丘と同じようにこちも英国の片田舎の丘から始まってるし。しかもこの本を読んだ時期も時期だけに途中出てくる異星人のひとつ海洋系にかんしては「アバター2」の世界じゃないかとね。 

著者のステープルドンはダンテの「神曲」を読んだことがあったのかは判らないが、ラストでの至高の瞬間の際の想像もイメージも出来ない(超えた)世界観を読んでると天国篇でのラストを思わさずにはいられない。

・・けっきょく巷では難解だと云われたりと有名だけど、読んでみると書かれている単語、文章は理解できるし意味もわかる。じゃぁ何が難しいのかって、終盤でも主人公が云ってるように体験したことなどを文章化することが出来ないほど、表現しずらいなどある。そのくだりを読んでてちょうど自分にも身近にもふと思い当たることがあるなと。毎夜みる「夢」の表現を文字では表現しずらい時もたしかにあるなと。時間も空間も人物設定なども変わってしまう流れにどう文字で表せばいいか困ってしまうジレンマもあったりなどね。

けっきょく読み手にとって文章として読めるし理解できてるように思えてもけっきょく頭のなかでイメージできない箇所も多数あるのは否めない。だから単に「難解」「判らない」ということが「例えようがない」「想像できない」「イメージできない」「どういうことなのか分からない」ということなのかなって。ただ、著者の表現しようとした(文章化した)ヴィジョンと読み手(受け手)としてこちらが頭に浮かべるヴィジョンが同じであろう同じであろうとちがってあろうと、それはそれとしてちがうなりに空想する面白さがることを思うとそれはそれで十人十色の個々の受け方しだいでいいんじゃないかって思うんだがね。

書かれてること(描かれてること)じたいはわかるけど、けっきょく何だったのかなって云われるとこの、映画で例えると自分が思うに『去年マリエンバートで』を観た後のような感想にも似たものがあるんじゃないかと思うんだがね。この映画も巷には難解だと有名なんだが、

・・さて、なんとかかんとか1ヶ月にわたって読了。読み終わって今思うに、もぅこの本を読んだからに、これまでチョボチョボと進展のなかった(まだ途中な)「失われた時を求めて」が全然こわくも怖気ずくことも面倒でもなくなったかのように感じたかな。ホントなら先に読みたかった「最後にして~」なんだがまだ手元にない。しょうがないんで今は泡坂本と平行して次は(既に買った状態で未読の)「シリウス」か「オッド・ジョン」のどれかを読もうかと。

・・著者ステープルドンはもしかしたら今で云うとこの「スターシード」のひとりだったんじゃないかって思ったんだがね。